故加藤前理事長は、本院の神職養成通信教育の実施を発議され、その基礎的な構想から始まり、神社本庁への説明や諸手続き、その他前人未踏の難題を大阪府神社庁との連携の下でクリアーされ、昭和52年に通信教育の発足にこぎつけられました。さらにその後本院の理事さん方と協力され、本院の神職養成通信教育の創設・発展に多大の功績を残されました。
 バイタリティあふれるお人柄を懐かしく思い出す本院修了生は多いと思われます。大阪府神社庁長及び本院の理事長を長く務められるとともに、神社本庁の要職を歴任されました。平成18年享年81歳で帰幽されました。
 
 次の一文は、かつおぎ会会報 『かつおぎ』(昭和63年9月発行)の再録として『浪速文叢』第22号別冊(平成24年3月発行)に掲載された加藤知衞前理事長の文章です。本院の神職養成通信教育の草創時のご苦労を物語るものとして、永く語り継いで行きたいと思います。
 
     
    神職養成通信教育創立当時の苦労話  
  加藤知衞 
   財団法人大阪国学院と学校法人浪速学院の源流は、明治初年に設立された神社神職の団体機関たる大阪府皇典講究分所であることはご高承のとおりであります。爾来大阪府皇典講究分所内に神職養成機関である大阪国学院が設置され、多くの神職を輩出したのであります。

 大阪国学院はその後財団法人の認可を得る一方、大正12年に浪速中学校を設立し、神職子弟の多くを迎え入れ中学校教育事業へも発展させました。戦後の学制改革に伴い、従来の財団法人はそのまま残して、学校は新しく認可された別法人たる学校法人浪速学院に移管し、高等学校教育を推進して来ました。

 爾来学校法人浪速学院は生徒が急増し、鉄筋校舎も建てられて大発展を遂げたのでありますが、ひとり何もする事がなく侘しく取り残された有名無実の大阪国学院を誰もが、ただ傍観するのみでした。

 昭和48年、浪速高等学校創立50周年の記念事業が協議された理事会において、加藤試案として「有名無実の財団法人大阪国学院の活性化をはかるべく、この際神職養成通信教育を行っていただきたい。」旨の提案をいたしました処、園克巳理事長以下、高松、山畑、足立氏他全員に賛成していただきました。特に、園理事長は自ら京都仏教大学や東京玉川学園大学に出向いて、通信教育について詳さに研究をおすすめいただきました事は、詢に大きな功績であり、今更ながら感謝を捧げる次第であります。

 忘れもしない昭和48年の暮も押し迫った12月25日、迎春準備で多忙な中を、私の懇請を快く受けて、園、山畑、高松、足立、長谷川、津江、田島氏等全員が東上し、神社本庁に白井光男副総長、渋川謙一教学部長を訪ね、大阪で神職養成通信教育を始めることについての説明と神社本庁の指導と認可方を懇請しました。

 本庁としては前向きで協力するが、前人未到の大事業で、仲々至難の業であることを強調されたあの日の事を今も鮮明に思い浮かべる事ができるのであります。
 当時、若僧の私の提言に耳を傾け、協力いただいた、白井光男副総長、園克巳理事長、山畑、高松、足立氏等が逝去された事は詢に痛恨の極みで、今更ながら胸の痛むのを禁じえません。故人の温容溢れるご協力に、謹んでご霊前に感謝の祈りを捧げる次第であります。

 さて、其の後、昭和49年、同50年と2ヵ年に亘り、仏教大学や玉川学園大学の通信教育の調査研究を行いましたが、神職養成という特殊教育であるため、仲々其の成果があがらず暗中模索の中に2年が過ぎました。これでは到底無理であるので、この道に練達の士を招聘して専念していただく他はないとの結論に達し、人物を物色していた処、田島理事が内田安守氏を引っ張り出して来られたのであります。

 内田氏は初代岸和田市教育長であり、無から有へと、教育委員会制度を確立した経験をもった有能老練の士であることが判り、この方に飛びついて早速大阪国学院の主事に委嘱しました。

 古ぼけた神社庁の2階四畳半の和室を事務室として、ミカン箱を書架とし、ステテコ一枚で孤軍奮闘の内田さんの健闘が開始されたのであります。この内田氏並びに当初から一貫して活躍する小澤惇子女史を、吾が大阪国学院に引っ張り出して来た田島瞳理事(副庁長)の陰の功績は忘れてはなりません。